2016年5月27日星期五

译成日文的诗篇(三):作者唯色,译者刘燕子

日文版《图伯特的秘密》。作者:唯色、王力雄。译者:刘燕子,兼及文论解说。2012年日本集广舍出版。

『チベットの秘密』(集広舎、2012年)
ツェリン・オーセル著、劉燕子訳

チベット断想(抄)

一、表現

 今まで、私はチベットについて表現できません。表現するのが苦手だからではなく、どのように表現したらよいのかまったく分からないのです。いかなる文法も存在していません。いかなるセンテンスも繋がっていません。いかなる語彙も、今日のような現実を前にすると、無意味になり、すごすごと遠くに逃げます。文章記号はたった三つしか残っていません。疑問符、感嘆符、省略記号〔……を指す〕だけです。
 私たちの内心にはこの三つの記号が満ちあふれ、他にはありません。私たちのからだには、この三つの記号の烙印がいたるところに押されています。
 見えるでしょう? あまりにもたくさんの疑問符が目に入ります。あまりにもたくさんの感嘆符が目に入ります。でも、口元にまで来ても、言葉にはなりません。言いたいことがあまりにも、あまりにも多すぎて、どう言えばいいのか分かりません。詳しく述べようとしてもできないので、ただ省略記号を繋げるだけなのです。
 チベットよ。ああ。何から話したらいいでしょうか? どうして話させてくれないのですか? 私のひとみのなかで、私の口元で、あなたはどうして永遠に巨大な疑問符、感嘆符、省略記号なのでしょうか?

二、視点

 今日、チベットは複雑な表情で人々の前に現れています。今日、誰もがチベットを見ようと思えば、見えるようです。遠くからでもちらっと見えます。天高くそびえる最高峰がちらっと見えます。自分が思いこんでいるチベットが見えます。
 人々の目のなかで、チベットは何物なのでしょうか? 空中に漂う絢爛たる気球のようで、日増しに神話化されていませんか? それとも、毒素を注入されて、もはや治らなくなった悪性の腫瘤でしょうか?
 連綿と連なる山々、融けない根雪、逆巻く急流、原始の草原、それに付随する奇異な風習、無数のラマやアニが口で唱える訳の分からない経文。これに伴い、一つひとつの視線は否応なくねじ曲げられ、屈折します。――それは旅行者の心理にある、よそ者の視線にすぎません。
 実は、チベットを神秘化する、あるいは悪魔化する視線などもともと存在していなかったのです。視線の下にある広大な、あるいは微細な真相と同様に、よそ者には気づきようのない封鎖の下で、視線の下に置かれた人々だけが身にしみて体験できる状況の中でねじ曲げられ、痙攣し、転倒したためなのです。この一つひとつが屈折して変えられた視線によって。ああ。チベットは、常に既に、徹底的にぼんやりとさせられているのです!
 ああ。チベットよ。実は、あなたは見ているようで、見えていません。これまでだって、これまでだって見えていなかったのです! チベットよ。実は、あなたはこれまで自分自身を見たことなどなかったのです!
 あなたは自分でも自分が見えていないのに、いったい誰があなたを見られるというのでしょうか!。

三、末日

 チベット人にとって、世界の末日は、あらゆる恐ろしい大預言が現実となる日ではなく、まさに、今日なのです。つまり、表面では同情して金を与えて公平に見せ、そして多少の仁慈を帯びた専制政治という、この時代です。既に「解放」が半世紀も続き、百万の「翻身農奴」*[1]が主人公となるという名目の下で、実際は緩慢に死へと導く毒薬が、少しずつ、無数のチベット人の毛穴から肺腑へと深く染みこんできました。アルコールに似て、快楽の幻覚が引き起こされ、日に日に酔いしれ、日に日に自分を見失い、日に日に我を忘れてきました。こうして、遙か遠くの異郷に、自分にとって精神的に最も親しい者〔ダライ・ラマを指す〕が、自分の今生と来世の幸福のために、たくさんの年月を費やして奔走し、年をとり衰え、気も心も疲れ果てているのに、そのお方には無関心で、忘れてしまっています。
 実際、事実、今日の無数のチベット人にとって、末日は既に今日となっていて、まさに毎日毎日が末日なのです。チベット人は末日のなかで暮らしていながら、それを知らず、末日を末日とも思いません。それは自分自身が常に既に末日の一部になってしまったからです!

四、声

 そうです。私たちは自分の声を出すと、いつでも叱責されます。その叱責のなかで、最も筋が通って説得力があるように聞こえるものは、“お前たちは、食べるものも飲むものもみんな、おれたちから提供されているのに、おれたちを攻撃する。お前たちの心はほんとうに陰険だ”というものです。さらに甚だしい場合は、“非常時になったら、さっさと逃げたらいいぞ。さもないと、やられるぞ”と威嚇します。明らかに植民者の口ぶりで、典型的なディスクールの暴力です。
 私たちは自分たちの土地で暮らしているのに、このように叱責されるのは、何を物語っているのでしょうか? 悠久の歴史や伝統のある我が民族が、昔から他人の恩賜をいただいてやっと生き延びてきたというのでしょうか? 事実がそうでないとすれば、一体いつから、隣りに住む他人が家に入り、部屋に居すわり、主人へと変わり、叱責して教え諭す権力を握るようになったのでしょうか?
 “食べるものも飲むものもみんな、おれたちから提供されている”というのは、いいかげんな嘘です。しかし一方で、この論調は植民者に蠱惑(こわく)された民衆には効果的です。植民者でも道理に背けば言葉に窮することも多少はありますから――そうではありませんか? 利益集団に吸収される人はみな、その生存形態が依存どころか、従属、さらには寄生になっています。そのため、か細い声しか発していないのに、ご主人から厳しく譴責されると、ただただ赤面して恥じ入り、声を呑む以外、何もできないのです。
 自分の声を発することは、大いなるタブーを犯すことなのかもしれません。つまり、ある種の覇権が私たちの地域に現れ、密かに戒律を行使しているようです。私たちは暗黙のうちに受け入れ、守り従い、もしも一歩でも踏み越えるなら、「おい、気をつけろ」と、権力の太い棍棒が頭上に振り下ろされます。これもまた一種の警告で、注意を喚起するのです。そして、私たちは官権が許す範囲でしか声を出せなくなるのです。
 もちろん、これは植民者の権力です。被抑圧者は声に詰まり、沈黙を強いられます。いいえ、強要されるのです。もし言えるとすれば、それは付和雷同の声でしかありません。
 ナイポール*[2]の言うとおり、帝国主義のご主人の追従者(ついしょうもの)になるだけです。さらに一歩進めば、権力のちょうちん持ちになり、これは当然、植民者の御心を大いに喜ばせ、多くの恩賞を下賜されます。ですから、“食べるものも飲むものもみんな、おれたちから提供されている”というのも承認されるのです。まるで、主人が番犬に骨をあげるとき、気前よく少しばかりの肉が付いた骨を投げるようなものです。

五、羞恥

 「すべての人間は、生れながらにして自由であり……」、「すべて人間は、思想、良心及び宗教の自由に対する権利を有する……」――これは半世紀も前に全世界に表明された「世界人権宣言」の中で、最も心を打ち震わせ、また慰藉する二つの条文です。しかし、同時に最も夢物語のような文言です。とりわけ、チベットでは今に至るまで、私たちは生き方と密接に関連する言論の権利があるとは聞いたことがありません。私たちに、この権利はありません。私たちはただ、雷鳴が轟くように、昼も夜も、ただ「だめだ。だめだ。だめだ!」と聞かされるだけです。
 ある日の午後、私は兵営のように深く掩蔽された宿舎で、周囲の壁や本棚を丹念に見つめました。これらは私の生とどれだけの歳月をともにしたことでしょう。沈んだ色合いのタンカ〔軸装を施した仏教画〕、それほど精緻でもないチューメ〔バターで作った燈明〕、人から贈られた、あるいは自分で撮影したチベット僧の写真、それに、小さな仏龕に端座するツァツァ〔粘土や陶製の小さな仏像〕。その頭には青い髷が結わえてあり、水のように澄みきった神々しい表情に一筋の憂いが浮かんでいます。この憂いは、まさにこの時に一層はっきりと現れていました。
――これらはすべて、私にとって信仰のシンボルで、また美感あふれる芸術作品でもあります。しかし、今、私はすべてしまい込み、人に知られないところに隠さなければなりません。それは、彼らが禁令を公布したからです。自宅で宗教に関する物品を飾ることを禁止する。絶対に禁止だ!
 明日、彼らは家ごとに徹底的に調べあげます。そう。この言葉です。徹底的に調べあげるのです! 私はタンカ、チューメ、写真、仏龕すべてを段ボール箱にしまい込んだとき、深い羞恥で心が覆われました。

六、消息

 毎日毎日、重大で特別な消息が、無数の矛盾のある、混乱したうわさとして次々に伝えられます。毎日毎日、私は気をもんで情報を集め、様々な消息を知ろうとします。どんな消息からでも真相を知りたいと切望します。切に切にその経緯を知りたい。これからの方向性を知りたい。最終的な結果を知りたい。しかし、あまりにも多くのうわさが真相を覆い隠し、真相を歪曲し、真相を隠蔽してしまいます。あまりにも多くのうわさの持つ効果はただ一つ。真相を沈黙に引き渡すこと。長い長い沈黙に。
 沈黙。ああ。あの十五歳の少年の活仏〔後のカルマパ十七世〕の心のように、永遠に誰も分かりません。しかし、うわさが多くなればなるほど、彼はますます遠くへ離れ去り、ただ沈黙する後ろ姿がえんじ色〔チベットの僧服の色〕の世界に融けていくのしか見えません。

七、参加

 人はみな参加している。人はみな逃れられない。みな同じように建設に参加する。同じように破壊に参加する。同じように幸福のゲームに、快楽の大行動に、公然たる、あるいは密かな大小の虐殺に参加する。これは目に見えない戦線です。嫌々ながらにせよ、喜んでにせよ、暗黙の了解に従って参加しているように見える。
 母はこう話しました。あの時、私はあなたを産んだばかりだったので、どの政治運動にも参加せず、家であなたの世話をしていました。
 ところが、母が外出すると、地面はバラバラにされた経典で埋めつくされ、頭上では恭しく奉じるべき神聖な経典の一枚一枚が放り投げられ、「造反有理」と大声で叫ぶ革命家に踏みにじられていました〔『殺劫』日本語版九八頁参照〕。母は経典を踏みつけるのは不本意でしたが、経典を拾い、ふところにしまうことなどとてもできずに……

八、良心

 古くさい話題です。また持ち出すのかと大笑いされる話題です。鉄の鉤(かぎ)に心臓が掛けられています。かつてまっ赤でしたがもはや色あせ、かつて生き生きとしていましたがもはや死んでしまい、ただ値が上がるのを待つだけになりました。通りすがりの人たちが、この奇妙な色合いや不思議な形に引きつけられ、胸を高鳴らせて言葉や絵で描き始めましたが、ふとそばに屠殺人がピカピカ光る太刀を手に立っているのを見て、あわてて次々に両手で心臓を取りだして捧げました。ああ。この引き渡された心臓は、鉄の鉤にかけられて売られる心臓と同じで、何の違いもありません。

九、恋人

 不思議な縁(えにし)が、彼と彼女のあいだで生まれました。不思議な縁が、特別な地名を通して結ばれました。この地名、いや、この地域は、地理学的には早くから存在していましたが、彼女にとっての意味あるものになりました。確実なかたちで言えば、今やあるお方と神秘的に繋がれ、霊的に感応するようになりました。
 チベット。ああ。あたかも一本の定められたひものように、異なる地域で暮らす見ず知らずの二人を結びつけました。チベット。ああ。地理学的に言えば、追憶の地理学、遙か遠い伝説のなかの地理学、宗教的な意味の地理学で、今でもわずかに暖かな色合いが添えられていて、この名前を口にすると、たちまち優しい感傷的な心情に満たされます。それはチベットが生の恋人を、この激変する生活のなかに連れてきてくれるからです!

十、使命

 一人の作家としてはもの足りない。一人の信者としてはもの足りない。一人の人間としてはもの足りない。この限られた現世の光陰のなかで、無限に長い前世の光陰のなかで。そして、この地とかの地、無数のこの地と無数のかの地、無数のこの地と無数のかの地が交叉する空間のなかで、私にできるのは、またすべきなのは、そして最もふさわしいのは一人の永遠の審美主義者であるということです。
 もちろん、このような審美は、宗教的感情と人間性が輝く究極的関心に満たされているべきです。具体的に言えば、精神の故郷――チベットを見つめ続けています! ここは慈悲と智恵の化身――観音菩薩に庇護された土地です! そこは現世の苦難のなかからゆっくりと上ってきた土地です! そこは今なお懸命にもがいていますが、かりそめの生き方のなかでも希望を孕んだ土地です!
 このため、私の審美は気楽なものでも、眩惑するものでも、愉快なものでも、見て楽しいものでも、百花繚乱でも、水面に浮かぶ光と影でもなく、……このような審美には、あまりにも多くの心痛、あまりにも多くのため息、あまりにも多くの涙が含まれていて、さらにまた、あまりにも多くの沈思、思考、啓示、昇華をも持たなければなりません。
 このようにして、一人の審美主義者は、同時に義に従って証言し、記録するという使命を引き受けなければならないのです!

十一、故郷

 ……これは今まで見たことがない草原です。緑のなかに、それと違うすべての緑があり、黄色のなかに、それと違うすべての黄色があり、淡い色から濃い色へと続き、そして、濃い色からまた別の色へと変わっていき、まるで赤黒い鉄さびが浮かぶようになっています。ひと塗り、またひと塗り、ひと色、またひと色。幾重にも重なりあい、肉眼では及ばぬほど延々と山麓から天空に伸びています。なんとたくさんの花々に、なんとたくさんの小動物が走り過ぎていることでしょう。
 小雨が舞っています。あの音楽がウォークマンのイヤホンから耳に入ってきます。そこに包まれていた悲しみが洪水のようにあふれ、またたく間に、この目を見はらせる草原に湧き出て、私に向かってきます。一本一本の草と一ひら一ひらの花びらに悲しみの涙の滴が落ちます。これは小雨ではありません。はるか遠い昔から流れてきて奥深く秘められた感情が、気候の作用であますことなく現れたのです。
 まさに音楽が草原の理解を深めさせてくれました。音楽がなければ、たとえこの目で草原を見ても、手と足で草原に触れても、その広さと孤独を知るだけです。また、まさに草原が音楽の理解を深めさせてくれました。その曲名や背景など言う必要はありません。ただ、この音楽は悲しみのなかで黙々と耐えぬいた力を秘めています。それは、我が民族と同じ苦難にある民族から流れ出てきた音楽です。
 ますます雨が激しくなってきました。風も猛烈に荒れ狂っています。不意に一羽の鷹が私の視野に飛び込んできました。まるでよく知っている詩の中で描かれた、俗世と関わりを持たない鳥のように「誇らしく飛び」、幾度も私に低い声で「嵐がすべての怒りをさらけ出すように」と叫ばせました*[3]。さながら飛ぶことを止められないかのように、鷹は疲れきっていました。ふと私は胸騒ぎがしました。いいえ、胸騒ぎというのではなく、鷹が休めるところはどこにあるのだろうかと、突然、惻隠の心情で胸がつまったのでした。
 でも、私は知っています。この刻(とき)、私がかいま見ている草原はほんの一瞬しか存在しません。言いかえれば、それは、毎年毎年の輪廻の四季、歴史、あるいは往事という、ずっしりと重い重荷を背負いながら、ただ沈黙を守りとおし、何も訴えません。この一瞬、私が目にしたものはほんのわずかで、また草原自体も深く静まりかえってしまいました。暴風雨よりさらに猛烈で悲愴な怒号は、もはや遠く過ぎ去ったようです。かつて祈り、懸命にもがき、またつかの間に得た喜びもまた、もはや遠く過ぎ去ったようです。
 私はただ記憶をたどり、子細に探りました。すると突然、ハッと気づきました。草原には武器を持った軍隊が幻のように入れ代わりたち代わり浮かびあがり、甘露を持った僧侶が花々の咲きほこる日々のなかで現れ、生まれては消えていく悠久の歴史の中で我が同胞が長い袖を舞いあがらせて踊っていたのでした〔代表的な民族衣装のチュパは長い筒袖〕。
 この草原のためなのです! 私は、形はありませんが、どこにでもあまねく存在する縁(えにし)に祈ります。私の無数の輪廻に関わるすべての生命が、この刻(とき)に再び回帰することを願います。すべての生命の耳が、この草原に傾けられることを願います。すべての生命の目が、この草原をじっと見つめることを願います。実は、私が言いたいことは一つだけなのです。私は、創作において、この草原のように、闊達なる表現で、また孤高なる精神で、悲しみを抱きつつ黙々と耐えぬく力を、とりわけ高貴な惻隠の心を持ちえるようにと願うのです!

一二、祈祷

 ……チベット。ああ。私の生生世世(しょうじょうせせ)〔仏教の言葉で、永遠を意味する〕の故郷。もし私がお供えのチューメなら、あなたのそばで消えることなく燃え続けたい。もしもあなたが飛翔する鷲なら、私を光り輝く浄土にお連れください!

                        二〇〇〇~二〇〇五年、ラサ・北京




*[1]「翻身」は元々「体の向きを変える」、「寝返りを打つ」などを意味したが、チベットの旧体制で抑圧された状態から解放され、生まれ変わった農奴という意味で、中国共産党がプロパガンダで使うようになった。
*[2]ヴィディアダハル・スラヤプラサド・ナイポールはインド系イギリス人の作家で、二〇〇一年にノーベル文学賞を受賞。
*[3]ロシアのマクシム・ゴーリキーが一九〇一年に創作した「海燕の歌」の詩句。これはプロレタリア革命の到来を予言した詩として詠われた。

2016年5月26日星期四

译成日文的诗篇(二):作者唯色,译者刘燕子

日文版《图伯特的秘密》。作者:唯色、王力雄。译者:刘燕子,兼及文论解说。2012年日本集广舍出版。

『チベットの秘密』(集広舎、2012年)
ツェリン・オーセル著、劉燕子訳

 チベットの秘密
 ―獄中のテンジン・デレク・リンポチェ、バンリー・リンポチェ、ロプサン・テンジンに献げる―

一、

彼らは私とどういう関係があるのかしらと、よくよく考えさせられます。
三十三年間も拘禁されたパルデン・ギャツォは*[1]
一二歳から投獄されたガワン・サンドルは*[2]
それに、釈放されたばかりのプンツォー・ニトンは*[3]
さらに、今もなお獄中に監禁されているロプサン・テンジンは*[4]
私は知っているわけではありません。ほんとうです。写真さえ見たことがありません。

ただネットでは見たことがあります。年老いたパルデン・ギャツォ僧の前に、
手錠、足かせ、匕首、性能が異なるいくつかの電気ショック棒。
彼の落ちくぼんで、しわが溝のように深く刻まれた顔から、
若いころのはつらつとした容貌が垣間見えました。
その美しさは俗世間には属さず、幼少期に仏門に入ったため、
外見の美は仏陀の精神へと転化していったのでした。

十月の北京郊外、秋風がうら寂しく吹きわたります。
私はラサでダウンロードした伝記を読み、
雪国の衆生が外国の蹄鉄に踏みにじられるのを目の当たりにしました。
パルデン・ギャツォが低い声で語りました。
「成人してからの人生の大半を中国人の刑務所ですごしてきた。しかも私自身の国で……*[5]
でも、「寛恕という言葉を知る」という声も聞こえてきます*[6]

覆面をつけた悪魔が不定期に正体を表し、
古い神々〔チベット伝統の護法神〕もかないませんが、
肉体のある凡人でも勇気が与えられます。
深夜の祈祷を真昼の叫び声に変えるとき、
高い壁の下のうめき声を四方に向かって響かせる歌声に変えるとき、
逮捕! 刑罰! 無期懲役! 死刑執行猶予! 死刑!

私はもともと口をつぐんできました。何も知りませんでしたから。
私は生まれると解放軍のラッパの音のなかで成長し、
共産主義の後継者となるように育てられました。
突然、赤旗の下の卵は、打ちこわされました。
中年になり、遅ればせながら怒りが喉を突き破るばかりになりました。
私よりも若い同胞の受難のため、涙があふれて止められませんでした。

二、

でも、私は重罪とされて獄中にいる二人を知っています。
二人ともトゥルク*[7]で、東部のカムの人です。
ジグメ・テンジン*[8]とアーナク・タシ*[9]、あるいはパンリーとテンジン・デレク、
これは彼らの俗名と法名です。
まるで忘れていたパスワードが作動したように、
それほど遠くはない記憶ですが、わざと避けて、しっかりと閉じていたドアを、開けたようです。

そうです。最初はラサの郵便局でした。彼は私に電報を書いてくれと頼みました。
彼は笑いながらいいました。「私は中国人の字は書けないのです。」
彼は、多くの友人のなかで初めての活仏でした。
チベット暦の新年のとき、私たちはパルコルにある写真館で、
けばけばしい色彩のセットの前で、仲良く写真を撮りました。
また、私は朱哲琴のMTVに連れて行き、優美な「手印」を演じてもらいました*[10]

めがねをかけたウ・ツアンの女性が彼の伴侶となりました。
二人は孤児院を開き、路上で物乞いをしていた五〇人の子どもを世話しました。
私も一人の里親になりましたが、この限られた憐れみも、突然、思いがけず止めさせられました。
二人は逮捕されましたが、何のためか分かりません。話によると、ある朝、
ポタラ宮広場で雪山獅子旗〔チベット国旗で、中国政府は国家分裂と見なす。雪獅子はチベット伝説の動物〕が揚げられたことに関係しているそうです。
でも、私は認めますが、あまりたくさん知りたくないのです。監獄に面会に行こうと思ったこともありません。

そうです。数年前、ヤルンツァンポ川のほとりで、彼はほとばしる流れの中のりんごを見つめていました。
「ごらんなさい。報いがやって来ました。」
彼の名は知られていますが、それは痛ましくもあり、私は困惑するばかりでした。
もちろん、彼は高名です。人々が次々に変節し、また沈黙するこの時代において、
村々をめぐり仏法を説き、政府や時弊を直接批判しました。
多くの農民、牧畜民、そして孤児は心の中で「大ラマ*[11]」と仰ぎ見ていますが、
しかし、役人には目のかたきにされ、この突き刺さったとげを抜き取らなければ気が休まらないと思われています。
何度も何度も苦心してわなを張りめぐらせ、「九・一一」の後でやっと捕まえることができました。
ご立派な罪状で、「反テロ」の名目を借りて見せしめにしました。
密かにダイナマイトと卑猥なビデオを隠し持ち、五ないし七件の爆破事件を計画したということです。
でも、私は、投獄される半年前に、彼は辛そうに語ったことを憶えています。
「母が病気で死にました。私は母のために引きこもって、一年修行しなければならない。」
堅く誓った仏教徒が、殺生を犯して命を奪う爆破事件に関われるでしょうか?

三、

私はもう一人のラマ〔師〕を知っていて、彼から帰依と瞑想の経文を教えられました。
ある日、セラ寺で、彼の弟子が泣いて訴えました。
彼が修行していたら、突然、警察の車であの悪名高いグツァ監獄に連行されたのでした。
理由は、何かの政権転覆計画事件の容疑でした。
私は数人の僧侶と駆けつけました。道路は、今のように舗装されていなく、土ぼこりが舞いあがっていました。
炎天下で目にしたのは、銃を持つ兵士の氷のように冷たい顔だけでした。

突然逮捕されのと同様に、突然釈放されました。証拠不十分という結論でした。
「劫」を生き延びて与えられた余生だと感無量で、彼は私に珍しい念珠をくれました。
それは獄中で与えられたマントーと窓の外で燦々と咲いていた黄色い花と親族が差し入れてくれた砂糖をこねて作ったものでした。
一個一個の珠にはびっしりと指紋がついていて、一個一個が体温でぬくもっているようでした。
読経しながら、屈辱の九十数日を過ごしのでした。
一〇八個の念珠よ、一個一個が堅固な石のようです。

私はあるアニ〔尼僧〕に出会いました。彼女は私の年の半分でした。
彼女はパルコルに沿って歩きながら、叫びました。チベット人によく知られているスローガンを。
私服警察が押し寄せ、口をふさがれました。それは、ある夏の日でした。
その日は、私が二八歳となった誕生日で、私はきれいな服を選んでいました。
また、その時の彼女と同じ一四歳のときは、ただ来年に成都の高校に合格することしか考えていませんでした。
私が書いた作文は、ベトナム人と戦う解放軍に捧げるものでした〔一九七九年二月~三月、中国・ベトナム国境で武力衝突が勃発〕。

七年後、寺院から追われた彼女は、ある親切な商人のところで手伝いをしていました。
背が低い彼女は、強烈な炎天下でも見すぼらしい毛糸の帽子をかぶっていました。
「布の帽子にしたら?」 私はプレゼントしようと思いました。
彼女は辞退しました。「頭痛がするので毛糸の帽子がずっといいのです。」
「どうして?」 そういう答えは初めてなので尋ねました。
「私の頭は獄中で殴られて壊れてしまったのです。」

挨拶を交わす仲のロデンは、人もうらやむ職業と前途でしたが、
夜通し暴飲した後、一人車に乗ってガンデン寺に行きました。
山頂でルンタ*[12]を投げるとき、命取りになるスローガンを幾度か叫んだため、
たちまち寺院駐在の警察に逮捕されました。
党書記は「酒を飲み本音を吐いた」と書類に記入し、
一年後、ラサの街頭では前科者の無職がまた一人増えました。

四、

ここまで書いてきて、私はこの詩を告発にはしたくありませんが、
なぜ、拘禁される者のなかで、僧衣(ドンカ)〔両袖のないガウンに似た衣服〕をまとう者が、そうでない者よりも多いのかと問わずにいられません。
明らかに常識からはずれています。暴力と非暴力の境界線は誰でも知っています。
ですからやはり私たちは羅刹女(らせつにょ)の骨肉なのです〔チベット人は猿と羅刹女の子孫と伝承されている〕。苦難をラマやアニが引き受けているのです。
代わりに殴られ、投獄され、死に赴いているのです。
担ってください。ラマよ、アニよ。私たちの代わりに担ってください!

誰にも知られず、耐えがたい一分一秒、忍びがたい昼と夜、
どのようにして肉体と精神が責め苛まれているのでしょうか?
肉体と書いて、私は思わず身震いしました。
痛いことはほんとうにいやです。ただ一度のビンタでも、私は耐えられない。
恥じながら、私は終わることのない刑期を指折り数えます。
チベットの良心は、一刻も止むことなく、現実のなかの地獄で脈打ち続けているのです。

コルラ〔寺院や聖地などの周囲を時計回りに巡礼すること〕の道の茶館で、つまらないうわさが隅々まで飛びかっています。
コルラの道の茶館で、退職した役人たちが夕方まで楽しそうにマージャンをしています。
コルラの道の居酒屋で、でっぷり太った公務員が毎晩酔っぱらっています。
あぁ、彼らが楽しく堕落するままにしましょう。「アムチョク」になるよりずっとましです。
「アムチョク」というのは「耳」、つまり隠れた密告者です。
「アムチョク」とは、なんとピッタリしたあだ名でしょう。なんとラサの人はユーモアがあるのでしょう。

裏切りと密告が、のぞき見とひそひそ話のなかでこっそりと進行しています。
すればするほど、ご褒美もたくさんもらえて、大物になれます。
ある日、町を歩いていると、奇妙な気持ちになって、私は耳をおおいました。
注意せず、気をゆるめたら、他人の手のなかに落ちてしまうのです。
注意しなければ「アムチョク」になり、隅々に入りこみ、どんどん鋭くなっていきます。
おとぎ話のなかで、子どもの鼻がうそをつくたびに長く伸びるようです〔ピノキオ〕。

いったいどれくらい怪しい「耳」が身近にいるのでしょうか?
また、どれくらい「耳」ではないのに「耳」だと誤解されているのでしょうか?
この奇異な人間模様は、アメとムチよりもずっと破壊力を持っています。
こう考えてくると、私は憂い、悲しみ、そして不本意ながら気づきました。
もう一つのチベットがあるのです。私たちが生活するチベットの裏面に隠されているのです。
このようなわけで、私はもはや抒情詩を書けないのです!

五、

でも、私は依然として沈黙しています。これはもはや習慣となったスタイルです。
理由はただ一つ。とても恐いからです。
なぜでしょうか。誰かはっきりと説明できるでしょうか。
実際、みなこうなのです。私には分かります。
「チベット人の恐怖は手で触れるほどだ」と言います*[13]
でも、私は、本当の恐怖は既に空気中に溶けこんでいる、と言いたいです。

過去と現在のことに触れると、彼〔リンポチェ〕は突然すすり泣きだし、私は驚きました。
えんじ色の僧衣で彼は顔をおおい、私は思わず笑ってしまいました。
こみ上げる内心の痛みをまぎらわせるためでした。
周りの人たちは私をにらみつけましたが、
彼は僧衣の中から頭をあげ、私と視線を交わしました。
そのかすかな震えから、恐怖の大きさが伝わってきました。

国営新華社通信のある記者は、北チベット〔自治区北部の那曲(ナチュ)地区〕の牧畜民の子孫で、
中秋節の夜に、酒臭い息を吐きながら共産党の言葉で、私をどなりつけました。
「お前は何様だ? お前があばきたてれば何でも変えられると思っているのか?
おれたちがやっと変えたばかりだというのを知ってるのか? お前は何をしでかそうとしてるんだ?」
私が規則違反したのは確かなことなの? 私は反論しようと思いましたが、彼の口から走狗の凶悪さがさらけ出されていました。
もっとたくさんの人は、もっと重大なことをしでかしたので、粛清されたのでしょうか?

彼女たちが朗唱する軽やかな声が聞こえてくるようです。
「かぐわしい蓮の花は、太陽〔毛沢東は「紅太陽(赤い太陽)」と崇拝された〕に照らされ、枯れてしまいました。
チベットの雪山は、太陽の熱で焼けこげてしまいました。
でも、永遠の希望の石は、命をかけて独立を求める私たち青年を守ります」〔「タプチェ監獄で歌う尼僧」の歌声の一つ〕
いいえ。いいえ。私は政治の暗い影を決して詩に入れるつもりはありません。
でも、どうしても考えてしまうのです。獄中の十代のアニはなぜ恐れないのでしょう?

書き続けましょう。ただ心に刻むためだけに。上に立って憐れむような道徳感など、
当然、持っていません。一個人が吐露するような私事を書きましょう。
ふるさとを遠く離れ、見知らぬ異民族のなかで永遠に身を置きながら、
ちょっぴりと後ろめたさを抱きながら、安全に、声を低くして話しましょう。
つくづく思うのです。彼(女)たちは私と無関係ではありません!
ただこの詩をもって、ささやかな敬意と、遠くからの想いを表します。

                  二〇〇四年一〇月二一日、初稿
                  二〇〇四年一一月一〇日、改稿、北京

こんな詩なんて役に立たないけれど、ロサン・ツェパクに捧げたくて……*[14]

一、

もう二三日目になりました。
ある日、「失踪させられる*[15]」という詩を読み、
すぐにあなたのことを思いました。

あなたは、先月二五日に「失踪させられ」ました。
私はただ涙を流して、詩を書くほかに術(すべ)がありません。

二、

映画には風景の挿入が必要なように、
私の思いは、とてもとても乱れるとき、
夢や幻のような場面がちらつきます。

馬のひづめを埋もれさせる花々、草原の黒いテント、
そよ風にはためくタルチョ、放生(ほうじょう)される鳥や獣(けもの)*[16]

これらはみな私のふるさとの美しい風景、
でも現実は困難を極めた時期で、まさにこの時、
あなたは蒸発するように消えてしまった。

三、

荒唐無稽と現実がイコールで、
私なんて、自分の身も守れないどころか、毒薬のようになってしまい、
あなたは毒の酒を飲み、受難の供物となったのでしょうか*[17]

目を閉じれば、いつもあなたが浮かぶ。
あの年の三月、烽火(のろし)が雪国の全域に燃え広がり、
同胞は鮮血を流し尽くした抗議者を寺院に担ぎ入れ、
心の聖殿に供えました。

四、

「三月は最も残酷な月です*[18]
ある外国メディアの記者は上品に、こう語りました。
二年続いて三月に彼はチベットを訪れ、何か見たようですが、
まだ何も見ていないようでもあります。
明らかに、彼は三六計〔中国古代の兵法では三六種の計略があるとされ、ここでは中国共産党の策略を指す〕の計略に落ちたのです。
私が「あなたは『チベット人は狼のように吠えた』とおっしゃったのですか?」とたずねると、
気まずい雰囲気になり、彼はプライドが傷つけられたような表情をしました。

五、

アク・ツェパク*[19]、あなたはどこにいるのですか?
野蛮なやり方で阿壩(ンガパ)に送還されたですか?
それとも秘密の独房に監禁され、残忍なリンチを受けているのでしょうか?

ある若い僧侶が拷問の経験を語ってくださいました。
彼は逆さにつり下げられて、肋骨を三本も折られました。
天気が変わるときは、からだを丸めるほどの激痛が来ます……
ああ。彼にたずねることを忘れました。最近、チベット東部では雪が降りましたが、体調はいかがでしょうか?
それはそうと、ツェパク上人の安否は、誰におたずねしたらいいのでしょうか?

六、

「私たちは足下に国を感じずに生きている
 私たちの会話は十歩離れると聞こえない」
これは、スターリンの手により死に至らしめられた良心的詩人*[20]の詩句です。
まさにこの世の春を謳歌している華夏〔中国の古称〕の姿でもあります。

深夜、私は混乱した内心を吐露しました。
「役に立つかどうか分かりませんが、それでも言います。
実は分かっているのです。言っても役には立たない……」
ランワン・ルンバ〔自由なる国〕の友人が力強い口調で語りました。
「あいつらは何を言ってもムダだと思わせる。
しかし、我々は言うことを止めるわけにはいかない。」

七、

私の両手には何もありません。
でも右手にペンを握り、左手で記憶をつかみ、
この時、記憶はペンの先から流れます。
さらに行間には、踏みにじられた尊厳と
尽きない涙があふれます。

八、

地獄を長い間じっと見つめていると、
地獄に少しずつ食われてしまうかもしれません。

条件があれば出してください?
もし条件があるのなら、聞かせてください。
彼を無事に交換できるのであれば。

ふと想い出しました。あの陰鬱な午後、
一羽の陰鬱な手下の鷹が、凶悪な口ばしを開きました。
「おまえに、できるのか? チベットについて書かないことを」

九、

チベットについて書かなければ、詩になりません。

まさに、チベットのためにこそ、ツェパク上人は失踪させられたのです。
まさに、チベットのためにこそ、タペー上人とプンツォ上人は焼身自殺したのです*[21]

このリストは延々と長く続き、さらに先へと長く……

漢語の西蔵――
もちろん、きちんとした名称はチベット〔原文は図伯特で、チベットの音訳〕です。

                     二〇一一年四月四日 初稿
                     二〇一一年四月一七日 脱稿




*[1]一九三三年にラサ西南二〇〇キロの村に生まれ、一〇歳で仏門に入り、一九五九年三月に「ラサ抗暴事件」が起きた後、二八歳であった彼は、当局から師を告発せよと強要されたが拒否したため投獄され、その後も繰り返し刑期を加えられ、辛酸をなめ尽くした。一九九二年、六〇歳になり釈放された。その後、密かにネパール経由でインドに脱出し、ダラムサラに暮らし、脱出時に持ち出した拷問道具を証拠品として自らの体験を証言し、チベットの現状を世界に知らせた。その伝記は『雪山下的火焔』(ツェリン・シャキャ〔次仁夏加〕記録、廖天琪訳、台湾前衛出版社、二〇〇四年、日本語版、檜垣嗣子訳『雪の下の炎』ブッキング、二〇〇九年)としてまとめられている。
*[2]尼僧。一九九〇年、まだ一二歳の彼女はラサの街頭抗議デモに参加し、投獄され、チベットで最年少の女性政治犯となり、九カ月後に釈放された。一九九二年にデモ行進に参加し、再び逮捕され、禁固十一年の判決を下された。彼女はラサの悪名高いタプチェ監獄(チベット第一監獄)に入れられ、他の一三名の尼僧とともにダライ・ラマ一四世を讃え、また獄中生活を伝え、自由を求める歌を密かに運び込まれたレコーダーに録音して運び出し、外部に暗黒と暴虐のとともに、チベット人の内心に秘められた希望を伝え、外国のラジオで放送された。彼女たちは「タプチェ監獄で歌う尼僧」と呼ばれた。二〇〇三年、国際社会の強い抗議により、ガワン・サンドルは刑期繰りあげで釈放されたが、既に衰弱していて、アメリカで治療を受けた。
*[3]尼僧。一九八九年、「反革命宣伝煽動罪」により懲役九年の判決を下された。タプチェ監獄で他の一三名の尼僧とともに歌を録音したため、さらに八年の刑期を加えられた。二〇〇四年二月二四日、国際社会の強い抗議により、刑期を繰りあげ釈放されたが、既に極めて衰弱していた。彼女は最後に釈放された「タプチェ監獄で歌う尼僧」であった。
*[4]ラサの人。一九六六年生まれ。逮捕される前はチベット大学チベット文学系二年生。一九八九年三月五日のいわゆる「ラサ騒乱」において、中国の武装警察の殺害を謀ったと告発され、何の証拠も提出されないまま、死刑執行猶予二年とされた。国際社会の抗議により、無期に改められ、さらに十八年とされ、二〇〇四年から十年の服役となった。今は林芝(ニンティ)地区波密(ポメ)県の監獄に入れられている。そこは重大な政治犯を専門に投獄する監獄で、二五人の中の一人は発狂し、ロプサン・テンジン自身は拷問され、心臓や腎臓がひどく傷つき、腰をまっすぐに伸ばせない。両目もショックで失明し、激しい頭痛に悩まされている。多くの人々は、このような状態では二〇一四年に刑期を終えるまで耐えられるかと懸念している。
*[5]前掲『雪の下の炎』二一五頁。
*[6]ポーランドの詩人、チェスワフ・ミウォシュ(Czeslaw Milosz)の詩集『吹弾集』(台湾の杜国清訳)より。
*[7]トゥルクは仏教用語「化身(応身)、nirmaaknoya」のチベット語。「化身」とは、「すべての生き物(衆生、有情)」を救済するため、仏が様々な姿・形で現れる際の姿。この観念は様々な大乗仏典に説かれているが、チベット仏教においては、すぐれた宗教者をこの化身とみなし、その宗教者の没後、「生まれ変わり」を探し、同一人格として扱い、生前の地位を敬称させるという習慣が一四世紀にはじまり、一六世紀ごろにかけて急速に各宗派の間に普及していった。このような、「生まれ変わり」により代をかさねる宗教者の名跡をチベット仏教では「トゥルク」と称し、「リンポチェ」という敬称を附す。
*[8]カム北部の活仏で、法名はパンリー。一九九七年頃、妻のニマ・チュートンとともにラサで「嘉措(ギャムツォ)児童之家」という孤児院を設立し、五〇名の孤児の世話をした。一九九九年、国家安全に危害を加えるスパイ活動という容疑で逮捕され、懲役刑(彼は一五年、妻は一〇年)を言い渡された。孤児院も閉鎖され、多くの孤児は身を寄せる家もなく、再び流浪の生活に戻らざるを得なかった。さらに二〇〇二年には甘孜(カンゼ)や成都での爆破事件に関与したという容疑で逮捕されたが、彼には動機がなく、影響力を有する高僧を社会から排除するのが目的であるという見方が一般的である。
*[9]カム南部の活仏で、法名はテンジン・デレク。四川省甘孜(カンゼ)州雅江(ニャクチュカ)県、理塘(リタン)県において人々から「大ラマ」と呼ばれている。彼は農村や遊牧地区に深く入り、仏法を教え、また多くの慈善活動を進め、孤児院を設立し、孤独な老人を助け、道路や橋を改修し、環境保護に取り組み、煙草、酒、賭博を戒め、不殺生を説き、とても敬愛された。しかし、二〇〇二年一二月、「国家分裂を煽動」し、「一連の爆破事件を実行した」という罪状で死刑判決を下された(執行猶予二年)。この暗黒裁判には多くの疑惑が出され、二年にわたり、国際社会、亡命チベット人社会、劉暁波や王力雄はじめ国内の知識人から、中国政府が法律を遵守し、新たに公正な審理を行うことを求める声が高く上がり、二〇〇五年に終身刑に減刑された。この事件では他に多くのチベット人が投獄され、ロプサン・トンドゥプには死刑が執行された。
*[10]一九九六年、「阿姐鼓」の歌でデビューした朱哲琴が、ラサで「ヤンチェンマ〔弁財天を指す。漢字表記は央金瑪〕」を歌う音楽番組を収録したとき、一人の僧侶が手の動作を演じたシーンがあった。その僧侶はパンリー・リンポチェであった。「手印」は仏教用語で、梵語ではムドラーであり、「印契」とも訳され、修行における両手や両指の様々な組み合わせである。
*[11]ラマは魂を導く霊的な師であり、ラマがみな僧とは限らず、また僧がみなラマとも限らない。
*[12]「ルンタ〔風の馬とされる〕」には五種類の色が使われ、経文などをしるした五色の「ルンタ」を天空に投じると、祈祷や念願が四方八方の仏様や菩薩様に見て、聞いてもらえると信じられている。
*[13]二〇〇二年六月一一日、ドイツの声(Deutche Welle)の報道。「スイスの新チューリッヒ新聞(Neue Zürcher Zeitung)がチベットについて詳しく報道した。……一つの文章はチベットを訪れるための基礎となっている。まずチベットの街頭の風景やチベット人のアイデンティティについて述べ、次に書き方をがらりと変えて『しかし、私たちがチベット人に近づこうとすると、誇らしい山岳民族は臆病な策略家になる。自己否定をしているのではと疑わずにはいられない。……多くのチベット人が恐れている。自分たちの民族のことになると、トラブルに巻き込まれるのだ。……チベットの至るところで中国の国旗が掲げられており、チベット人の恐怖は手で触れるほどだ』と述べている。」
*[14]ロサン・ツェパクはアムドのンガパ(四川省ンガパチベット族チャン族自治州ンガパ県)のキルティ僧院の二六歳の青年僧。彼は二〇一一年三月二五日の夜、北京市内の中央民族大学にいるとき国家安全局により身柄を拘束され、現在でも消息が不明である。
*[15]原文は「被失踪」で、「被」は「される」という受身を意味するが、現在では強制的に「させられる」という意味でも使われている。「被」を使った新語には「被精神病者(上訪=直訴者などが地元に強制送還され、精神病だとして強制的に入院=事実上の監禁状態に置かれる)」、「被就職(大学が就職率アップのために存在しない会社に内定とされる)」、「被自殺(警察が不審な死亡事件を自殺として処理する)」など多数あり、流行にさえなっている。
*[16]タルチョは経文を印刷した布などを、白または五色で万国旗のように連ねて掲げたもの。屋根、庭、テント、聖なる山、峠、湖などではためかせる。また、放生は仏教の「殺生戒」に従い、生き物を野や川に放ち功徳を積むという営み。
*[17]オーセル氏は常に尾行、監視され、自分に関わると嫌がらせを受け、甚だしくは逮捕されることもあるので、自分を「毒薬」に喩え、ツェパク上人は自分と会ったから「失踪させられた」のではないかと嘆いている。
*[18]T.S.エリオットの長篇詩「荒地」の冒頭「四月はいちばん残酷な月」を踏まえている。
*[19]「アク」はアムドやカムで用いられる敬称で、中央チベットの「クショ」、「クショラ」に相当。
*[20]ロシアの不屈の詩人のオシプ・マンデリシュターム(Osip Mandelstam、一八九一~一九三八年)が一九三三年に書いた「スターリン・エピグラム」の一節で、彼は翌三四年に逮捕され、三八年に流刑地で死去した。
*[21]二〇〇八年三月一六日、ンガパ県で僧侶と民衆が街頭に出て抗議の声をあげたが、軍と警察に鎮圧され、この日は記念の日となった。翌〇九年二月二七日、ンガパ県にあるキルティ僧院の二四歳の僧侶、タペーはンガパの街頭で抗議の焼身自殺を図ったが、軍隊や警官に銃撃され、足と右腕に障害が残り、軍の病院に監禁されている。そして、二〇一一年三月一六日、キルティ僧院の二〇歳の僧侶、ロプサン・プンツォ僧がンガパの街頭で焼身自殺を図り、「ギェルワ・リンポチェの帰国を!」、「チベットに自由を!」、「ギェルワ・リンポチェのご長命と久しきご在位を!」と叫んだが、警官隊に取り押さえられ、激しく殴打され、三月一七日早朝三時、身を捧げた犠牲者となった。プンツォの抗議をきっかけに、三月一六日、僧侶や民衆が立ち上がり、平和的に抗議の声をあげたが、数千の武装警察が僧院を包囲・封鎖し、強引に捜査を行い、多数の僧侶が逮捕され、食料の供給も絶たれ、壊滅的な打撃を受け、存続の危機にまで追い込まれるという異常な事態となった。