ツェリン・オーセル著、劉燕子訳
チベットの秘密
―獄中のテンジン・デレク・リンポチェ、バンリー・リンポチェ、ロプサン・テンジンに献げる―
一、
彼らは私とどういう関係があるのかしらと、よくよく考えさせられます。
私は知っているわけではありません。ほんとうです。写真さえ見たことがありません。
ただネットでは見たことがあります。年老いたパルデン・ギャツォ僧の前に、
手錠、足かせ、匕首、性能が異なるいくつかの電気ショック棒。
彼の落ちくぼんで、しわが溝のように深く刻まれた顔から、
若いころのはつらつとした容貌が垣間見えました。
その美しさは俗世間には属さず、幼少期に仏門に入ったため、
外見の美は仏陀の精神へと転化していったのでした。
十月の北京郊外、秋風がうら寂しく吹きわたります。
私はラサでダウンロードした伝記を読み、
雪国の衆生が外国の蹄鉄に踏みにじられるのを目の当たりにしました。
パルデン・ギャツォが低い声で語りました。
覆面をつけた悪魔が不定期に正体を表し、
古い神々〔チベット伝統の護法神〕もかないませんが、
肉体のある凡人でも勇気が与えられます。
深夜の祈祷を真昼の叫び声に変えるとき、
高い壁の下のうめき声を四方に向かって響かせる歌声に変えるとき、
逮捕! 刑罰! 無期懲役! 死刑執行猶予! 死刑!
私はもともと口をつぐんできました。何も知りませんでしたから。
私は生まれると解放軍のラッパの音のなかで成長し、
共産主義の後継者となるように育てられました。
突然、赤旗の下の卵は、打ちこわされました。
中年になり、遅ればせながら怒りが喉を突き破るばかりになりました。
私よりも若い同胞の受難のため、涙があふれて止められませんでした。
二、
でも、私は重罪とされて獄中にいる二人を知っています。
これは彼らの俗名と法名です。
まるで忘れていたパスワードが作動したように、
それほど遠くはない記憶ですが、わざと避けて、しっかりと閉じていたドアを、開けたようです。
そうです。最初はラサの郵便局でした。彼は私に電報を書いてくれと頼みました。
彼は笑いながらいいました。「私は中国人の字は書けないのです。」
彼は、多くの友人のなかで初めての活仏でした。
チベット暦の新年のとき、私たちはパルコルにある写真館で、
けばけばしい色彩のセットの前で、仲良く写真を撮りました。
めがねをかけたウ・ツアンの女性が彼の伴侶となりました。
二人は孤児院を開き、路上で物乞いをしていた五〇人の子どもを世話しました。
私も一人の里親になりましたが、この限られた憐れみも、突然、思いがけず止めさせられました。
二人は逮捕されましたが、何のためか分かりません。話によると、ある朝、
ポタラ宮広場で雪山獅子旗〔チベット国旗で、中国政府は国家分裂と見なす。雪獅子はチベット伝説の動物〕が揚げられたことに関係しているそうです。
でも、私は認めますが、あまりたくさん知りたくないのです。監獄に面会に行こうと思ったこともありません。
そうです。数年前、ヤルンツァンポ川のほとりで、彼はほとばしる流れの中のりんごを見つめていました。
「ごらんなさい。報いがやって来ました。」
彼の名は知られていますが、それは痛ましくもあり、私は困惑するばかりでした。
もちろん、彼は高名です。人々が次々に変節し、また沈黙するこの時代において、
村々をめぐり仏法を説き、政府や時弊を直接批判しました。
しかし、役人には目のかたきにされ、この突き刺さったとげを抜き取らなければ気が休まらないと思われています。
何度も何度も苦心してわなを張りめぐらせ、「九・一一」の後でやっと捕まえることができました。
ご立派な罪状で、「反テロ」の名目を借りて見せしめにしました。
密かにダイナマイトと卑猥なビデオを隠し持ち、五ないし七件の爆破事件を計画したということです。
でも、私は、投獄される半年前に、彼は辛そうに語ったことを憶えています。
「母が病気で死にました。私は母のために引きこもって、一年修行しなければならない。」
堅く誓った仏教徒が、殺生を犯して命を奪う爆破事件に関われるでしょうか?
三、
私はもう一人のラマ〔師〕を知っていて、彼から帰依と瞑想の経文を教えられました。
ある日、セラ寺で、彼の弟子が泣いて訴えました。
彼が修行していたら、突然、警察の車であの悪名高いグツァ監獄に連行されたのでした。
理由は、何かの政権転覆計画事件の容疑でした。
私は数人の僧侶と駆けつけました。道路は、今のように舗装されていなく、土ぼこりが舞いあがっていました。
炎天下で目にしたのは、銃を持つ兵士の氷のように冷たい顔だけでした。
突然逮捕されのと同様に、突然釈放されました。証拠不十分という結論でした。
「劫」を生き延びて与えられた余生だと感無量で、彼は私に珍しい念珠をくれました。
それは獄中で与えられたマントーと窓の外で燦々と咲いていた黄色い花と親族が差し入れてくれた砂糖をこねて作ったものでした。
一個一個の珠にはびっしりと指紋がついていて、一個一個が体温でぬくもっているようでした。
読経しながら、屈辱の九十数日を過ごしのでした。
一〇八個の念珠よ、一個一個が堅固な石のようです。
私はあるアニ〔尼僧〕に出会いました。彼女は私の年の半分でした。
彼女はパルコルに沿って歩きながら、叫びました。チベット人によく知られているスローガンを。
私服警察が押し寄せ、口をふさがれました。それは、ある夏の日でした。
その日は、私が二八歳となった誕生日で、私はきれいな服を選んでいました。
また、その時の彼女と同じ一四歳のときは、ただ来年に成都の高校に合格することしか考えていませんでした。
私が書いた作文は、ベトナム人と戦う解放軍に捧げるものでした〔一九七九年二月~三月、中国・ベトナム国境で武力衝突が勃発〕。
七年後、寺院から追われた彼女は、ある親切な商人のところで手伝いをしていました。
背が低い彼女は、強烈な炎天下でも見すぼらしい毛糸の帽子をかぶっていました。
「布の帽子にしたら?」 私はプレゼントしようと思いました。
彼女は辞退しました。「頭痛がするので毛糸の帽子がずっといいのです。」
「どうして?」 そういう答えは初めてなので尋ねました。
「私の頭は獄中で殴られて壊れてしまったのです。」
挨拶を交わす仲のロデンは、人もうらやむ職業と前途でしたが、
夜通し暴飲した後、一人車に乗ってガンデン寺に行きました。
たちまち寺院駐在の警察に逮捕されました。
党書記は「酒を飲み本音を吐いた」と書類に記入し、
一年後、ラサの街頭では前科者の無職がまた一人増えました。
四、
ここまで書いてきて、私はこの詩を告発にはしたくありませんが、
なぜ、拘禁される者のなかで、僧衣(ドンカ)〔両袖のないガウンに似た衣服〕をまとう者が、そうでない者よりも多いのかと問わずにいられません。
明らかに常識からはずれています。暴力と非暴力の境界線は誰でも知っています。
ですからやはり私たちは羅刹女(らせつにょ)の骨肉なのです〔チベット人は猿と羅刹女の子孫と伝承されている〕。苦難をラマやアニが引き受けているのです。
代わりに殴られ、投獄され、死に赴いているのです。
担ってください。ラマよ、アニよ。私たちの代わりに担ってください!
誰にも知られず、耐えがたい一分一秒、忍びがたい昼と夜、
どのようにして肉体と精神が責め苛まれているのでしょうか?
肉体と書いて、私は思わず身震いしました。
痛いことはほんとうにいやです。ただ一度のビンタでも、私は耐えられない。
恥じながら、私は終わることのない刑期を指折り数えます。
チベットの良心は、一刻も止むことなく、現実のなかの地獄で脈打ち続けているのです。
コルラ〔寺院や聖地などの周囲を時計回りに巡礼すること〕の道の茶館で、つまらないうわさが隅々まで飛びかっています。
コルラの道の茶館で、退職した役人たちが夕方まで楽しそうにマージャンをしています。
コルラの道の居酒屋で、でっぷり太った公務員が毎晩酔っぱらっています。
あぁ、彼らが楽しく堕落するままにしましょう。「アムチョク」になるよりずっとましです。
「アムチョク」というのは「耳」、つまり隠れた密告者です。
「アムチョク」とは、なんとピッタリしたあだ名でしょう。なんとラサの人はユーモアがあるのでしょう。
裏切りと密告が、のぞき見とひそひそ話のなかでこっそりと進行しています。
すればするほど、ご褒美もたくさんもらえて、大物になれます。
ある日、町を歩いていると、奇妙な気持ちになって、私は耳をおおいました。
注意せず、気をゆるめたら、他人の手のなかに落ちてしまうのです。
注意しなければ「アムチョク」になり、隅々に入りこみ、どんどん鋭くなっていきます。
おとぎ話のなかで、子どもの鼻がうそをつくたびに長く伸びるようです〔ピノキオ〕。
いったいどれくらい怪しい「耳」が身近にいるのでしょうか?
また、どれくらい「耳」ではないのに「耳」だと誤解されているのでしょうか?
この奇異な人間模様は、アメとムチよりもずっと破壊力を持っています。
こう考えてくると、私は憂い、悲しみ、そして不本意ながら気づきました。
もう一つのチベットがあるのです。私たちが生活するチベットの裏面に隠されているのです。
このようなわけで、私はもはや抒情詩を書けないのです!
五、
でも、私は依然として沈黙しています。これはもはや習慣となったスタイルです。
理由はただ一つ。とても恐いからです。
なぜでしょうか。誰かはっきりと説明できるでしょうか。
実際、みなこうなのです。私には分かります。
でも、私は、本当の恐怖は既に空気中に溶けこんでいる、と言いたいです。
過去と現在のことに触れると、彼〔リンポチェ〕は突然すすり泣きだし、私は驚きました。
えんじ色の僧衣で彼は顔をおおい、私は思わず笑ってしまいました。
こみ上げる内心の痛みをまぎらわせるためでした。
周りの人たちは私をにらみつけましたが、
彼は僧衣の中から頭をあげ、私と視線を交わしました。
そのかすかな震えから、恐怖の大きさが伝わってきました。
国営新華社通信のある記者は、北チベット〔自治区北部の那曲(ナチュ)地区〕の牧畜民の子孫で、
中秋節の夜に、酒臭い息を吐きながら共産党の言葉で、私をどなりつけました。
「お前は何様だ? お前があばきたてれば何でも変えられると思っているのか?
おれたちがやっと変えたばかりだというのを知ってるのか? お前は何をしでかそうとしてるんだ?」
私が規則違反したのは確かなことなの? 私は反論しようと思いましたが、彼の口から走狗の凶悪さがさらけ出されていました。
もっとたくさんの人は、もっと重大なことをしでかしたので、粛清されたのでしょうか?
彼女たちが朗唱する軽やかな声が聞こえてくるようです。
「かぐわしい蓮の花は、太陽〔毛沢東は「紅太陽(赤い太陽)」と崇拝された〕に照らされ、枯れてしまいました。
チベットの雪山は、太陽の熱で焼けこげてしまいました。
でも、永遠の希望の石は、命をかけて独立を求める私たち青年を守ります」〔「タプチェ監獄で歌う尼僧」の歌声の一つ〕
いいえ。いいえ。私は政治の暗い影を決して詩に入れるつもりはありません。
でも、どうしても考えてしまうのです。獄中の十代のアニはなぜ恐れないのでしょう?
書き続けましょう。ただ心に刻むためだけに。上に立って憐れむような道徳感など、
当然、持っていません。一個人が吐露するような私事を書きましょう。
ふるさとを遠く離れ、見知らぬ異民族のなかで永遠に身を置きながら、
ちょっぴりと後ろめたさを抱きながら、安全に、声を低くして話しましょう。
つくづく思うのです。彼(女)たちは私と無関係ではありません!
ただこの詩をもって、ささやかな敬意と、遠くからの想いを表します。
二〇〇四年一〇月二一日、初稿
二〇〇四年一一月一〇日、改稿、北京
一、
もう二三日目になりました。
すぐにあなたのことを思いました。
あなたは、先月二五日に「失踪させられ」ました。
私はただ涙を流して、詩を書くほかに術(すべ)がありません。
二、
映画には風景の挿入が必要なように、
私の思いは、とてもとても乱れるとき、
夢や幻のような場面がちらつきます。
馬のひづめを埋もれさせる花々、草原の黒いテント、
これらはみな私のふるさとの美しい風景、
でも現実は困難を極めた時期で、まさにこの時、
あなたは蒸発するように消えてしまった。
三、
荒唐無稽と現実がイコールで、
私なんて、自分の身も守れないどころか、毒薬のようになってしまい、
目を閉じれば、いつもあなたが浮かぶ。
あの年の三月、烽火(のろし)が雪国の全域に燃え広がり、
同胞は鮮血を流し尽くした抗議者を寺院に担ぎ入れ、
心の聖殿に供えました。
四、
ある外国メディアの記者は上品に、こう語りました。
二年続いて三月に彼はチベットを訪れ、何か見たようですが、
まだ何も見ていないようでもあります。
明らかに、彼は三六計〔中国古代の兵法では三六種の計略があるとされ、ここでは中国共産党の策略を指す〕の計略に落ちたのです。
私が「あなたは『チベット人は狼のように吠えた』とおっしゃったのですか?」とたずねると、
気まずい雰囲気になり、彼はプライドが傷つけられたような表情をしました。
五、
野蛮なやり方で阿壩(ンガパ)に送還されたですか?
それとも秘密の独房に監禁され、残忍なリンチを受けているのでしょうか?
ある若い僧侶が拷問の経験を語ってくださいました。
彼は逆さにつり下げられて、肋骨を三本も折られました。
天気が変わるときは、からだを丸めるほどの激痛が来ます……
ああ。彼にたずねることを忘れました。最近、チベット東部では雪が降りましたが、体調はいかがでしょうか?
それはそうと、ツェパク上人の安否は、誰におたずねしたらいいのでしょうか?
六、
「私たちは足下に国を感じずに生きている
私たちの会話は十歩離れると聞こえない」
まさにこの世の春を謳歌している華夏〔中国の古称〕の姿でもあります。
深夜、私は混乱した内心を吐露しました。
「役に立つかどうか分かりませんが、それでも言います。
実は分かっているのです。言っても役には立たない……」
ランワン・ルンバ〔自由なる国〕の友人が力強い口調で語りました。
「あいつらは何を言ってもムダだと思わせる。
しかし、我々は言うことを止めるわけにはいかない。」
七、
私の両手には何もありません。
でも右手にペンを握り、左手で記憶をつかみ、
この時、記憶はペンの先から流れます。
さらに行間には、踏みにじられた尊厳と
尽きない涙があふれます。
八、
地獄を長い間じっと見つめていると、
地獄に少しずつ食われてしまうかもしれません。
条件があれば出してください?
もし条件があるのなら、聞かせてください。
彼を無事に交換できるのであれば。
ふと想い出しました。あの陰鬱な午後、
一羽の陰鬱な手下の鷹が、凶悪な口ばしを開きました。
「おまえに、できるのか? チベットについて書かないことを」
九、
チベットについて書かなければ、詩になりません。
まさに、チベットのためにこそ、ツェパク上人は失踪させられたのです。
このリストは延々と長く続き、さらに先へと長く……
漢語の西蔵――
もちろん、きちんとした名称はチベット〔原文は図伯特で、チベットの音訳〕です。
二〇一一年四月四日 初稿
二〇一一年四月一七日 脱稿
*[1]一九三三年にラサ西南二〇〇キロの村に生まれ、一〇歳で仏門に入り、一九五九年三月に「ラサ抗暴事件」が起きた後、二八歳であった彼は、当局から師を告発せよと強要されたが拒否したため投獄され、その後も繰り返し刑期を加えられ、辛酸をなめ尽くした。一九九二年、六〇歳になり釈放された。その後、密かにネパール経由でインドに脱出し、ダラムサラに暮らし、脱出時に持ち出した拷問道具を証拠品として自らの体験を証言し、チベットの現状を世界に知らせた。その伝記は『雪山下的火焔』(ツェリン・シャキャ〔次仁夏加〕記録、廖天琪訳、台湾前衛出版社、二〇〇四年、日本語版、檜垣嗣子訳『雪の下の炎』ブッキング、二〇〇九年)としてまとめられている。
*[2]尼僧。一九九〇年、まだ一二歳の彼女はラサの街頭抗議デモに参加し、投獄され、チベットで最年少の女性政治犯となり、九カ月後に釈放された。一九九二年にデモ行進に参加し、再び逮捕され、禁固十一年の判決を下された。彼女はラサの悪名高いタプチェ監獄(チベット第一監獄)に入れられ、他の一三名の尼僧とともにダライ・ラマ一四世を讃え、また獄中生活を伝え、自由を求める歌を密かに運び込まれたレコーダーに録音して運び出し、外部に暗黒と暴虐のとともに、チベット人の内心に秘められた希望を伝え、外国のラジオで放送された。彼女たちは「タプチェ監獄で歌う尼僧」と呼ばれた。二〇〇三年、国際社会の強い抗議により、ガワン・サンドルは刑期繰りあげで釈放されたが、既に衰弱していて、アメリカで治療を受けた。
*[4]ラサの人。一九六六年生まれ。逮捕される前はチベット大学チベット文学系二年生。一九八九年三月五日のいわゆる「ラサ騒乱」において、中国の武装警察の殺害を謀ったと告発され、何の証拠も提出されないまま、死刑執行猶予二年とされた。国際社会の抗議により、無期に改められ、さらに十八年とされ、二〇〇四年から十年の服役となった。今は林芝(ニンティ)地区波密(ポメ)県の監獄に入れられている。そこは重大な政治犯を専門に投獄する監獄で、二五人の中の一人は発狂し、ロプサン・テンジン自身は拷問され、心臓や腎臓がひどく傷つき、腰をまっすぐに伸ばせない。両目もショックで失明し、激しい頭痛に悩まされている。多くの人々は、このような状態では二〇一四年に刑期を終えるまで耐えられるかと懸念している。
*[9]カム南部の活仏で、法名はテンジン・デレク。四川省甘孜(カンゼ)州雅江(ニャクチュカ)県、理塘(リタン)県において人々から「大ラマ」と呼ばれている。彼は農村や遊牧地区に深く入り、仏法を教え、また多くの慈善活動を進め、孤児院を設立し、孤独な老人を助け、道路や橋を改修し、環境保護に取り組み、煙草、酒、賭博を戒め、不殺生を説き、とても敬愛された。しかし、二〇〇二年一二月、「国家分裂を煽動」し、「一連の爆破事件を実行した」という罪状で死刑判決を下された(執行猶予二年)。この暗黒裁判には多くの疑惑が出され、二年にわたり、国際社会、亡命チベット人社会、劉暁波や王力雄はじめ国内の知識人から、中国政府が法律を遵守し、新たに公正な審理を行うことを求める声が高く上がり、二〇〇五年に終身刑に減刑された。この事件では他に多くのチベット人が投獄され、ロプサン・トンドゥプには死刑が執行された。
*[13]二〇〇二年六月一一日、ドイツの声(Deutche Welle)の報道。「スイスの新チューリッヒ新聞(Neue Zürcher Zeitung)がチベットについて詳しく報道した。……一つの文章はチベットを訪れるための基礎となっている。まずチベットの街頭の風景やチベット人のアイデンティティについて述べ、次に書き方をがらりと変えて『しかし、私たちがチベット人に近づこうとすると、誇らしい山岳民族は臆病な策略家になる。自己否定をしているのではと疑わずにはいられない。……多くのチベット人が恐れている。自分たちの民族のことになると、トラブルに巻き込まれるのだ。……チベットの至るところで中国の国旗が掲げられており、チベット人の恐怖は手で触れるほどだ』と述べている。」
*[21]二〇〇八年三月一六日、ンガパ県で僧侶と民衆が街頭に出て抗議の声をあげたが、軍と警察に鎮圧され、この日は記念の日となった。翌〇九年二月二七日、ンガパ県にあるキルティ僧院の二四歳の僧侶、タペーはンガパの街頭で抗議の焼身自殺を図ったが、軍隊や警官に銃撃され、足と右腕に障害が残り、軍の病院に監禁されている。そして、二〇一一年三月一六日、キルティ僧院の二〇歳の僧侶、ロプサン・プンツォ僧がンガパの街頭で焼身自殺を図り、「ギェルワ・リンポチェの帰国を!」、「チベットに自由を!」、「ギェルワ・リンポチェのご長命と久しきご在位を!」と叫んだが、警官隊に取り押さえられ、激しく殴打され、三月一七日早朝三時、身を捧げた犠牲者となった。プンツォの抗議をきっかけに、三月一六日、僧侶や民衆が立ち上がり、平和的に抗議の声をあげたが、数千の武装警察が僧院を包囲・封鎖し、強引に捜査を行い、多数の僧侶が逮捕され、食料の供給も絶たれ、壊滅的な打撃を受け、存続の危機にまで追い込まれるという異常な事態となった。
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